石井 博士

   過ちを恐れてはならない。
   絶望を恐れてはならない。

 窓の無い部屋。そこは地下施設の一室だ。高級ホテルのスイートルームを模して作られた、贅沢で小奇麗な内装と調度品。
キングサイズのベッドには、異形のものが腰掛けている。
頭部は狼に似て、ゴリラのような太い腕と分厚い胸板。腿から下は剛毛もまばらになり、競輪選手を思わせる発達しきった筋肉をまとった太い足。
この異形は、人為的に作り出されたもの。彼は、ファラーと呼ばれる未知の生物を自らの肉体に寄生させて、この肉体を手に入れたのだ。
彼のコードネームは「シルバーバック」。シルバーバックとは、群を統べる雄ゴリラの呼び名である。群のリーダーとなったゴリラの背中には銀色のたてがみが生える。それがシルバーバックの由来だ。彼の後頭部から背中に流れるたてがみも、満月のような銀色。まさに「シルバーバック」だ。
シルバーバックは、考えていた。自分はこれからどうなるのか。

 ここK県、叶野岬の灯台下の崖をくり抜き、巨大な研究施設と研究から生まれた生体兵器たちの収容施設を作ったのは、「クラウン」という名の秘密結社だ。
最先端科学技術を研究し、世界中の大企業から研究費を集めているのが表の顔。しかし、その裏側では生体兵器の研究、開発が進められていた。
アルティメット・トルーパー計画。ただ一体で、訓練された完全武装の兵士一個中隊以上の戦闘力を持つ兵士。それを作りあげるのだ。
 「おまえたち、ミューティアンは失敗作だ」
シルバーバックは、ひょろっとした腺病質の体に眼鏡ばかりが目立つ、ミノーという名前の科学者にののしられた。
道場を模した広い部屋で、ミノーが研究していた「ガイボーグ」という名のデク人形と戦ったときのことだ。
ファラーの寄生によって細胞が変質させられた、シルバーバックたちミューティアンと、外科的施術によって人工骨格、人工筋肉を埋め込まれ、軽量特殊合金の仮面と鎧を身に着けたガイボーグ。
二台目の自動車が出来上がった時からモータースポーツが始まった、という言葉の通り、このミューティアンとガイボーグの戦いは、建前こそは参考のためのスパーリングだったが、その実は二つの研究の優劣を競うための戦いだった。
 ガイボーグはシルバーバックの敵ではなかった。組めば、その力は互角だったが、瞬発力が違った。シルバーバックは軽やかなフットワークと、頭上を軽々と飛び越える跳躍で、ガイボーグを翻弄した。
別室のモニターで、ミノーと共にミューティアン計画のリーダー、紫苑もこの戦いを見ているはずだった。
紫苑。彼女には科学者らしくない、におい立つような色気がある。彼は、これまでに頭の中で何度も紫苑を裸に剥いてみた。片手に余る、軟式テニスボールのような弾力を秘めた乳房。滑るような手触りで、しっかりと筋肉の張った腹部。果実のような尻。そのすべてを包むしっとりとしたミルク色の肌。
繰り出されるローキックを掌底で捌きながら、ガイボーグの隙を見つけようとしている今も、自分の体を冷たい手術台に横たえ、ファラーを植え付けられている時も、シルバーバックは想像の中で、紫苑のあられもない姿態を思い浮かべていた。彼女を見かけた男は、誰でもそうせずにいられないはずだ。紫苑に自分の強さを誇示したい。彼女の作り上げた、自分という戦闘生物が誰よりも強いことを証明し、その栄誉を分かち合いたい。
踏み込んで、拳を左胸に叩き込んだ。軽量特殊合金の装甲と人工骨格に守られているとはいえ、衝撃は心臓にまで達したはずだ。装甲板がへこんだ感触が、拳に伝わる。どんなに体を鍛えていようが、生身の人間であれば心臓が止まるほどの衝撃。
だが、ガイボーグの人工臓器はタフだった。一瞬、動作が止まることもなく、パンチを叩き込んだ右手首をとられ、ひねられる。これも常人であれば、肘関節の苦痛に耐えかねひねられた方向に倒れてしまうはず。
しかし、シルバーバックの腕はびくともしなかった。仮面の黒いゴーグルの奥で、ガイボーグの目に焦りが見えた。
シルバーバックは、腕を振り上げ、左の拳をガイボーグの頭部に叩き込んだ。ゴーグルが砕け、きらきら光る黒い破片が飛び散った。
ガイボーグは掴んでいた腕を離して、床にへたり込んだ。
「そこまで! 終了だ!」
スピーカーからミノーの声が響く。
戦いに勝った。
シルバーバックは、ミューティアンがガイボーグより優れていること、紫苑の研究がミノーの研究よりも組織にとって有意義であることを証明したつもりだった。
だが、別室からやってきたミノーは
「おまえたち、ミューティアンは失敗作だ」
と言い捨てた。
シルバーバックは、ミノーを冷たく一瞥した。
「そうかな。ガイボーグは失敗作に負けたってことでいいのかい?」
ミノーの顔がぱっと紅くなった。言い返そうとしたミノーの肩を後ろから細い指が掴んだ。
「負け惜しみはやめて。シルバーバックは他のミューティアンとは違うのよ。失敗作呼ばわりは許さないわ」
厳しい表情の紫苑だった。
ミノーは言葉を失った。
怒った顔にも色気がある。シルバーバックはそう思った。
 スパーリングの後、紫苑から聞かされたのだがシルバーバック以外のミューティアンは精神が不安定になる傾向があり、最悪の場合は発狂し、薬殺処分されていた。それでなくとも、いつ爆発するかわからない不安な精神状態のまま軍事作戦を遂行することは困難だ。そのため、精神安定剤を大量に投与されたり、脳改造手術を施されていた。
シルバーバックだけが、ファラー寄生後もそれ以前と変わらぬ精神を保ち続けていた。
なぜ、シルバーバックだけが。その理由は判らなかった。
それが判れば、対処することもできる。そうなればミューティアンこそが、アルティメット・トルーパー計画の中核になる。そのあかつきには、最初の成功例であるシルバーバックの地位は、高いものになるのだろうか。

 今はそんなことを考えている場合じゃない。
ベッドに腰掛けたシルバーバックは大げさに頭を振った。頭の中に詰まった雑念を振り落とす勢いで。そして、奥歯を食いしばって考えを集中させる。
ミューティアンも、ガイボーグも、アルティメット・トルーパーの中核になりえない事態が起きたのだ。
実験体が逃亡したという話は聞いていた。
シルバーバックは自ら進んでミューティアンとなったが、自分の意思とは無関係に拉致され、ミューティアンやガイボーグにされる者もいた。
ミューティアンにされたものは発狂するか、薬漬けになるか。ガイボーグにされたものは、諦めたのか、従順に組織に従うものがほとんどだった。
しかし、その実験体は逃亡した。
「ガイファード」
ミノーは憎しみをこめて、逃亡者をそう呼んでいた。
ガイファード。
強化改造されたガイボーグに、ファラーが寄生したもの。
両者の優れた部分をあわせ持つ、まさに、アルティメット・トルーパー。
組織はそう結論付け、ガイファードの捕獲を試みた。そのために、シルバーバックの仲間たちが出動した。精神安定のための薬は欠かせないものの、完成レベルに達したミューティアンたちだった。
しかし、ことごとく失敗。
蜘蛛の遺伝子とファラーを植えつけられた女レスラーも、蠍の甲冑を身につけたボクサーもガイファードを連れて帰って来ることが出来ないばかりか、命を落とした。
 いつか自分もガイファード捕獲作戦に駆り出されるのか。
そんなのはまっぴらだった。シルバーバックは、小学校入学前から空手をやっていた。もともとセンスが良かったのか、中学生の頃には道場で一番強くなっていた。しかし、ルール無用の喧嘩では、武道の段位など関係ないことを知っていた。
素手に勝つには棒を持て。棒に勝つには剣を持て。剣に勝つには銃を持て。
ガイファードに勝つには何を持てばいいんだ。
 シルバーバックはベッドから立ち上がった。
身長は180cmを越えているが、細身の体に対して肩から上の狼の部分が大きく、頭でっかちに見える。ゆっくり深呼吸すると、両の掌を胸の前で合わせ、呼吸を整える。
「気」を練っているのだ。
生体エネルギーの一種である「気」は、寄生生物ファラーの効果によって物理的なエネルギーにまで転化していた。
シルバーバックの体が、かすかに光り始める。「気」が彼の体の中で、猛烈に活性化しているのだ。淡い金色の光が、獣人の体を包む。
まばゆく、かつ暖かさを感じさせる光。
まるで神の降臨を思わせる光景であった。
 獣人シルバーバックは「気」でその兵器と化した肉体を包み込み、自らの姿を人間のそれに変えた。自分の姿を確かめるため、両手の指を顔にはわせる。
大きな掌には不釣り合いな繊細で細い指が、鼻の高さを確かめ、頬骨の作り出す隆起のフォルムをなぞり、柔らかな唇に触れる。
昔の自分と同じ姿だった。彼は嬉しくなった。
シルバーバックは、明という名の若者に戻った。
シルバーバックの姿では、隠れることはできない。組織の秘密を守るため、クラウンは自分を捜すだろうし、人間たちは獣人の姿を恐れ攻撃してくるだろう。
しかし、明でいれば大丈夫だ。毒蛇が牙を隠すように、シルバーバックの姿は隠しておくのだ。
明に戻れば、ここから逃げられる。にやりと笑った。細おもてで、あまり人間的な表情を感じさせない顔が、人なつっこいものに変わった。
女たちを騙してきた表情だ。残念なことに、あの女科学者、紫苑を騙す力があるかどうかを確かめることはなかったが。
 その時、部屋が揺れた。続いて、遠くから爆発音が聞こえてきた。
何が起きたのだ。
明は不安になった。

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