11


 明は毛布にくるまって眠っている。プレハブの日に焼けた畳の上に、大きな繭が転がっているように。
将人は壁にもたれかかって座り、じっと明に眼を落としていた。明を見守っているわけではない。彼は明け方の戦闘を頭の中で反芻していたのだ。
銃を持った敵を目の前にして、臆することなく、まるで以前からプログラムが組まれていたかのように、必殺の反撃ができる自分の力。
さらに銃弾を撃ち込まれ、変貌を遂げた明の姿。自分が変身したら、どんな姿になるのだろう。
将人は頭の中で渦巻いている不安な考えを振り払うため、立ち上がった。外を歩いてみたくなった。
ドアを押して、外に出る。西日があたりを茜色に染めている。
 街道を避けて、裏の細い道をとぼとぼ歩く。
歩いても不安は消えない。自分が何者か分からないということが、これほど心細いものか。自分と、この世界との接点が無くなってしまったような心持ちだ。
来た道を戻れば、明がいる。その存在を大きく意識した。
しかし、将人は歩き続ける。もっと心細くなったら、戻ればいい。
たったひとり歩くのは、寂しい。
きっとアイツも寂しがっている。アイツは俺が死んだと思っているだろうから。
アイツとは誰だ。
だが、指の隙間からこぼれ落ちてゆく砂のように掴めない。
アイツ。
将人を気にかけている、将人の存在を強く意識している、誰か。
誰なのか、思い出せない。
このまま何も思い出せないのか。
焦る意識の中に、あの冷たい目の女が現れる。
紫苑。
将人を見おろし、あの青年を倒せと命じている。
青年。それがアイツなのか? 
アイツとの関係を思い出したい。
なぜ、アイツを倒せと紫苑に命じられたのだ。
自分は命じられるままに戦ったのか? 
傾きかけた日差しの中を歩いているのに、将人の意識はミルクのように濃い霧の中を歩いていた。
この霧の向こうに、明るい景色が広がっているはずだ。
将人は懸命に歩き続けた。
霧の中を、ひたすらに歩き続けた。
いつの間にか背丈ほどの雑草が生い茂る空き地の脇道を抜け、街道に出たことにも気づかぬほど、意識の霧の中を歩いていた。
だから、車道に踏み出し、自分めがけてトラックが走ってくることにも気がついていなかった。
 宅配便のトラックのハンドルを握る青年が、ふらりと車道に出てきた将人に気がついたときは、もう遅すぎた。
トラックはブレーキのけたたましい音を立てながら、将人に向かって突っ込んでいく。
運転台の青年は、目をカッと見開き将人を凝視したまま、全体重をかけてブレーキペダルを踏んでいた。
飛ばしていたつもりはないが、制限速度に十五キロはプラスして走っていた。
よそ見をしていたわけではない。
突然、男が車の前に出てきたのだ。
ロックしたタイヤが、アスファルトの上を滑る音が空気を裂くように響く。
男の姿は、吸い寄せられるようにフロントガラスに近づいてくる。
青年は自分の運の悪さを呪った。
間違いなくあの男を轢き殺す。しかし、自分に何の過失があるだろうか。男は自分から車の前に出てきたのだ。しかし、死んでしまったら相応の処罰と、いつまでも消えぬ心の痛みが残るだろう。
男の姿が、フロントガラスの下に消える。
男の体が車体に当たる衝撃が伝わってくるはずだ。

 将人は自分に向かって走ってくるトラックも、耳をつんざくようなブレーキ音にも気付いていなかった。
突然、全身に強い衝撃を感じた。
将人は衝撃を感じると同時に、全身に力を込め、重心を下げた。
一瞬の何分の一かの間に、この衝撃を受けはじき飛ばされるのは危険だ。と、本能が判断した。
将人の身体を光が包んだ。
彼の“気”だ。
 肉の塊が鉄板に叩きつけられるような音がした。
トラックのハンドルを握った手に鈍い衝撃が伝わってくる。
やっちまった。
トラックを運転していた青年の胸に苦い液体が溢れる。
しかし、次の瞬間、青年は自分の身体が右に向かって倒れてゆくのを感じた。
何が起こったのだ。
倒れてゆくのは自分の身体だけではなかった。自分の身体を収めたシートも倒れてゆく。
トラックが横転しようとしているのか? 
青年はパニックに陥った。
なぜ、トラックは横転しようとしているのだ。
自分は何を轢いてしまったのか。

 将人は背筋を振り絞って、自分に襲い掛かってきた重い衝撃を払いのけた。
ずずんと鈍い音をたてて、トラックが横転した。
サイドミラーが潰れ、フロントガラスが砕けた。
 横倒しになったトラックの運転台で、シートベルトに縛り付けられた青年は、粉々になったフロントウインドの向こうに黒い甲冑の男を見た。
 青年はその男をまじまじと見た。こいつがトラックをひっくり返したのか。
信じられない出来事だった。
黒い甲冑の男は、鋭くつり上がったまなざしのマスクをかぶっている。
おかしい。自分が轢きそうになった男はこんなマスクなんか、かぶっていなかった。
マスクの目線が、青年に注がれた。
彼は震え上がった。これはマスクじゃない。
間違いなく“眼”だ。
よく見ると、甲冑に思えた物も、外骨格のような生物感のある、尋常ではない質感をたたえている。
 将人は横転したトラックから、運転手を助け出そうと思ったが、彼が自分を見る目つきに動きを止めた。
彼は、恐怖に囚われている。
自分を恐れているのか? 将人は自分の足元に目をやった。
足が、自分の物ではなくなっていた。
黒い皮膚の上に銀のラインが、膨らんだ血管のように走っている。
自分の掌も見た。
指が、手の甲が、装甲板のような物で覆われている。
将人は衝撃をはね除けるため、無意識で変身していた。
これが自分の姿なのか。将人は、自分の身体を眺め回した。
震える手でシートベルトを外して、運転手が這い出してきた。
怯えた視線を将人に向けている。
目を離したら、その隙に襲いかかるとでも思っているのだろうか。
声をかけようと思った将人だったが、それはためらわれた。
運転手は将人から視線を外さないようにしながら、後ずさりを始め、二十メートルほど離れると、くるりと背中を向けて全速力で走り去った。
 将人もこのままここに居るわけにはいかない。
人目についていい姿だとは思っていなかった。
しかし、どうやれば人間の姿に戻れるのか。
まずは、この場から姿を隠そう。
将人は来た道を戻り始めた。

△先頭