13


 将人は変貌した姿で走り続けていた。
自分はいったいどうなっているのか。
雑木林を抜け、民家の庭先を走り抜け、アスファルトの上を土の上を砂利の上を、走った。
何処をどう走ったかは分からない、ただ前に向かって走る。
将人は不安に追いつかれないように、全力で走った。
どこをどれくらい走ったのか、なんのために走っているのかも分からなくなってきた。
さすがに息も継げなくなってきて、足が重くなった。
将人は立ち止まった。
自分の身体を光る霧が包む。
装甲板が吸い込まれるように消えて、彼の姿は人間に戻った。
 将人は細いあぜ道に立っていた。周囲は畑で、見回す限り誰もいない。
沈みかかった太陽が、畑に茂った緑をオレンジ色に染めている。時折吹く風が、オレンジ色に波を起こした。
何が植えてあるんだろうかと、将人は思った。
答えを知りたいわけではない。
将人の興味は次の瞬間に、頬に当たる風の気持ちよさに切り替わっていた。
大きく息を吸い込む。気持ちのよい空気を肺で感じ、息を整えるためだ。
三度の深呼吸で、呼吸数と脈拍は平常のレベルに戻り、肌からしみ出そうとしていた汗も消えた。
 息が落ち着くと、気持ちも落ち着いてきた。
地下基地を脱出してから今までを頭の中で反芻してみる。
明が、記憶を失った自分を連れ出してくれたのはありがたい。
しかし、自分が明に利用されているのではないかという不安もある。
銃弾が飛び交う暴力の世界。
それは明の世界であって、そこに自分が属しているとは思えなかった。
いや、利用されているのではないのかもしれない。
自分には記憶がないのだ。
自分と明の共通項。異様な姿への変貌は、どう考えればよいのか。
そして、戦闘となると、自動的に動いてしまう自分の体。
明とまったく違う世界に生きていたとは思えなかった。
狼のような獣人の明と、甲虫のような装甲板を全身にまとった自分。
いいコンビなのかもしれない。
しかし、なぜ自分は変身できるのか。
将人の脳裏に女科学者・紫苑のイメージがフラッシュを浴びたかのように浮かび上がる。
が、その時吹いてきた風が優しく将人の頬をなで、心地よい感触に紫苑のイメージはかき消された。
代わって浮かび上がったのは、隠れ家にしていたホテルに現れた女の姿だった。
そういえば、あの女性の感触が自分を過去に導いたのだ。
彼女にもう一度会いたい。
彼女と一緒に時を過ごせば、失った記憶の断片が浮かび上がってくるかもしれない。
記憶を失った不安。自分が何者か分からない不安。
その不安をやわらげてくれるのは彼女だけかもしれない。

 サイレンを鳴らし回転灯を輝かせて、パトカーが疾走する。追うように、救急車も走ってきた。
何事か、と明はパトカーを追った。
将人が何かやらかしたのかもしれない。
全力を出せばパトカーと並んで走ることも可能だが、そうするわけにもいかず、適当なスピードでついてゆく。
パトカーが止まったのは、自動車事故の現場だった。
明は少し離れた場所で足を止め、様子を見ることにした。
トラックが横転している。
他に停車してる車もないので、トラックの単独事故らしかった。
通りかかったフリをして、明はゆっくりと近付いてゆく。
トラックの運転手が救急隊員の手を借りて、担架に乗せられている。
その横に張りつくように、警官が事情を聞いていた。
「酒かクスリでもやっていたのか、君は」
警官が声を荒げる。
「違いますよ。本当の話です!」
運転手も興奮していた。
「あんたは飛び出してきた男とぶつかって、その男がトラックを転がしたって言ってるんだよ。自分で変だと思わないのかい」
警官は諭すように声を和らげた。
「変な話だけど、事実なんですよ。で、ひっくり返ったトラックからなんとか出てきたら、ぶつかった男が怪物に変わってたんです!」
「わかったよ」
と警官は答えて、救急隊員たちに運転手が頭を強く打っている可能性があると告げた。
救急隊員たちは担架を地面に置いて、頭部を固定する器具を取りに救急車へ走る。
 将人がトラックとぶつかったのだ。
将人も他のミューティアンたちのように、凶暴になり、歯止めが利かない状態になったのだろうか。
明は暗澹たる気持ちになった。
将人を利用しようと思っていることは間違いないが、それでも、明の中には仲間意識が芽生えていたのだ。
もう、将人と会うことも無いのかもしれない。
もし再び会えたとしても、将人はガイボークか獣人の姿をしているかもしれない。

 プレハブに帰ってきた明は、ごろりと横になった。
薄暗い夕闇が部屋の中を侵食し始めている。
しかし、明は天井の蛍光灯を点ける気にならなかった。
さびしい気持ちだった。
見上げた天井の隅に、蜘蛛の巣があった。小さな蛾が見えるか見えないかほどの細い糸にからまり、もがいていた。蛾に向かって、灰色の蜘蛛が近づいてゆく。
蜘蛛が長い足を絡みつけるように、蛾を押さえ込んだ。
弱いものは、餌になる。それがルールだ。
しかし、と明は思った。こいつらは本当に生きるために、弱いものを食う。俺たちは、もっと金が欲しい、もっと楽しい思いがしたい、そんなことのために弱いものを食っているんだ。
そこへ、将人が帰ってきた。
「どこに行ってたんだ」
明は体を起こした。
将人は明を見つめて、口を開かなかった。
あても無く歩き、トラックに激突するというアクシデントで変身し、気が動転して走り回ったため、答えようが無かったのだ。
将人の困り顔は、夕闇のために明からは見えなかった。
だから、明には将人の沈黙の理由がわからない。
記憶が戻ったのか。まさか、と思いながら、そう思った。
だが、将人に恨まれるようなことはしていないはずだ。
 将人はしばらく考えてから、口を開いた。
「昨日の女に会いたいんだ」
「女?」
明は驚いた。
いったい将人はどうしちまったんだ。
女に会いたいと言い出すような男ではなかったはずだ。
明は天井に手を伸ばして、蛍光灯のスイッチを引っ張った。
将人の心細そうな表情が、照らされた。
記憶を取り戻したようには見えなかった。
明は安心した。
「昨日の女がいいのか」
「ああ。頼むよ」
「わかった。いつでも会わせてやるよ」
明は優しい笑みを唇に浮かべて、将人の肩に手をかけた。

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