15


 取引の場所は町外れの廃工場だった。大きな建物だ。工場として稼働していた頃は大型の工作機械が並べられ、頭の芯に響くような、鼓膜をおかしくする金属音が溢れ返っていただろう。しかし。今はただの大きな箱だ。
壁際には倒産した時、売り払いそこねた工作機械の残骸が積み上げてあった。
天井から下がった蛍光灯が薄汚れた緑色の光を投げ掛けている。
 積もった埃に何条かの轍が穿たれている。
轍の先、工場の中央には工藤と三人の部下が乗ってきたセンチュリーが止まっている。工藤の部下たちは、センチュリーと寄り添ように停められた大型の四輪駆動車の荷室から重そうな木箱を降ろし、センチュリーのトランクに積み入れている。
 工藤は四駆の鼻先で、武器商に現金の詰まったトランクを渡していた。
「ラングラーか。パジェロの方が力があるんじゃないか?」
工藤はトランクの中の札束を改めている武器商に声をかけた。
「あなたこそ、どうしてセンチュリーなんです? キャデラックの方が乗り心地がいいのに」
長髪でやせ形、日本人のくせにユダヤ人のような顔付きの武器商は、札束から目を離さずに答えた。
「その乗り心地が性に合わない。アメ車の足はふかふかすぎる」
「ならばベンツは」
「ヨーロッパの車はがちがちすぎる」
「国粋主義者ですか」
武器商は工藤の反応を伺うように横顔を見つめる。
「いや。トヨタ派だな、俺は。トヨタはいいぞ、故障しない」
「手間のかかる子ってのも、かわいいモンですよ」
武器商はにこりともせずに、トランクのふたを閉めた。
「確かに頂きました。じゃ」武器商はラングラーに乗り込んだ。
 工藤の部下たちも積み降ろしを終えて、ラングラーの荷室のゲートを閉じる。
三人の部下は工藤に近寄り、彼を囲む形になった。
 武器商のラングラーがエンジンをうならせ、床に積もった埃を巻き上げて走り去る。
ラングラーが工場のゲートをリモコンで開けて走り去った。
 工藤と部下たちは油断無く周囲を見回した。誰かが襲ってくるなら、このタイミング。ここにあるのは機械の残骸と鉄屑、正体不明の埃そして人間の屑。ここは死の世界。工藤はそう感じた。
 ラングラーが走り去るのと入れ替わりに、明と将人はゲートをくぐった。黒い服に身を包み、身体を低くかがめて、工藤たちの目を逃れたつもりだった。

 工藤の耳に装着された小さなイヤホンに、信号音が響いた。
この廃工場の天井に配置した部下からの無線だ。
「二人、侵入しました。左手側から回り込むようです」
雑音のないクリアな音声だった。
「来たぞ。相手は二人。左側だ」
工藤は三人の部下に伝えた。三人とも殺人術に長けた男だった。
一人は脇の下からベレッタを抜き、もう一人は腰の後ろから四十五口径のコルト・ガバメントを抜いた。世界の軍人が拳銃を四十五口径のコルトから、九ミリ口径のベレッタに変えていく状況でも、コルトを手放さない男だ。
もう一人は手品のように器用な手つきで腰の後ろからリボルバーを抜いた。357マグナムだ。
 明と将人は壁際に積み上げられた大型の工作機械の残骸の間を縫うように歩いていた。
 工藤に近づいて、銃をぶっ放す。工藤を囲んでいる三人がどう反撃してこようと、知ったことではない。シルバーバックになっても構わない、と明は思っていた。
 将人は明の後をついて歩きながら、残骸の隙間から工藤たちを見ていた。取引が終わったというのに動く様子がない。襲撃されるのを予期しているように見えた。
 太い鉄骨の梁がむき出しの天井に、人影があった。
下から見上げても。鉄骨の影で見えない。
人影は、伏せ撃ちの体勢でライフルを構えた、小柄な老人だった。黒っぽい迷彩服を着ている。
ライフルには高倍率のスコープ、本人の頭部には無線のヘッドセットが装着されている。
老人は、明と将人がこの工場に入ってきた時から、スコープを通して二人を見ているのだ。その円形の視野には、明の後を歩く将人の横顔が見えている。
 「撃てます」
老人が、マイクに向かって喋った。
 「撃て」
工藤が答える。
「全員、目標を確認しろ。狙撃手が撃ったら、後は一斉射撃だ」
鋭い声で指示を出した。
 工藤の指示で工場の中に四隅に潜んでいる八人の部下が、固唾を飲んだ。
最初の射撃が攻撃の合図だ。
 明が足を止めた。将人も立ち止まる。
鉄屑の影から、明と将人は工藤たちの様子を確認する。
「四人だけか」
明は将人に尋ねた。工藤がたった四人で来るだろうか。
「いや、まだ人の気配がある」将人は油断なく周囲を見た。
東西南北それぞれの壁面に二人ずついても、おかしくない。この空間に濃密な殺気が漂っていた。
 老狙撃手は、スコープの視野の中心に将人のこめかみを捉えた。
動きの止まっている今が、命中のチャンスだ。
毛ほどのためらいもなく、老人は引き金を引いた。
 大型の野生動物を一撃で倒すために作られた大口径のライフルが、音速を超えるスピードの弾丸を轟音と共に空中に放った。
象をも一撃でひっくり返すエネルギーを持った弾丸が、将人のこめかみを捉えた。

 将人は何が起こったのか分からなかった。強烈な衝撃が彼の全身を襲い、その瞬間に意識が途切れた。トラックとは比べものにならないほどの高速で、衝撃が襲ってきたのだ。変身する間は無かった。
 明の顔になま暖かいものがふりかかった。将人の血だった。
雷鳴のような銃声が聞こえたと同時に、将人が頭から血を吹き出して倒れたのだ。
驚く暇もなく、立て続けに銃声がはじけた。

 将人が撃たれたと同時に、明は行動を開始していた。
鉄屑の山の陰を飛び出して、工藤に向かって走る。
次々と銃声がはじけ、空気を鋭利な刃先で切り裂く音と共に、銃弾が飛んできた。
シルバーバックになれば、銃弾なぞ跳ね返せるが、このまま撃たれ続ける気はない。
明は駆け出しながら「気」を集中した。彼の身体が光に包まれた。

 第二弾を撃ち込もうとした狙撃手のスコープの視野から、明の姿が消えた。
素早い奴だ。老人はスコープを覗いたまま、ライフルを構え直した。ライフルのストックの前方を抱えた左手を軽く動かしただけで、スコープの中に明の姿を捉えられる。経験のなせる業だ。
しかし、狙撃手がスコープの中に見たのは、筋肉質の体躯に狼の頭部を乗せた、この世のものではない生き物だった。
狙撃手はライフルの発射をためらった。
自分は今、何を見ているのか。
引き金を引くことを忘れ、スコープから顔を上げた。

 北側の壁に潜んでいた二人の若い拳銃使いは、銃声を聞くや否や、拳銃を構えて飛び出していた。
侵入者は二人いた。狙撃手は一人を仕留めるだろう。しかし、狙撃手が第二弾を放つ前に俺達が二人目を仕留めてやる。
二人は銃を握った右腕を思いっきり伸ばして、拳銃を撃ちまくった。距離は十メートル足らず。前に向かってまっすぐ撃てば必ず当たる。
二人は一卵性双生児のパーカッション奏者のように、同時に、リズミカルに、発砲した。
その銃声に反応したように、立ちつくしていた男は我に返って、二人の方に走り出した。
目の前で仲間が撃たれ、気が動転したのだろう。自分たちに向かって走り出すとは。
二人は同時にそう感じていた。
それもいいだろう。アッという間に蜂の巣になって、楽になれる。
拳銃を撃ちまくる二人の余裕は、次の瞬間、綺麗になくなっていた。
男の姿が一瞬光ったかと思うと――

 明はシルバーバックに変身した。将人の仇を取る。
怒りのため視野は赤く染まり、はらわたは憤怒に煮えくり返った。
敵を殲滅し、工藤の首を取るのだ。
目の前に拳銃を持った男が、二人立っていた。シルバーバックは突っ込んでいく。
自分に向かって飛んでくる弾丸の何発かは、肉体に食い込んでいるはずだ。だが、その衝撃は感じても痛みはまったく感じなかった。
二人の男に迫っていく。二人とも祈るように両腕で拳銃を握りしめている。
 迫ってくる男の姿が狼になった。と、二人は思った。
狼は、ゴリラのように太い腕をしていた。その腕が、自分に向かって伸びて来る。
シルバーバックは、二人の男の頭を握って、易々と握り潰した。
掌に広がる、肉が抵抗する感触と、なま暖かくぬめる血。

 獣人が二人の男の頭を握り潰した瞬間を目撃した狙撃手は、撃たなければならない、と思った。あれは生かしておいてはならないモノだ。
狙撃手は再びスコープを覗き込んだ。
今まで、いくつもの命がこのスコープの視野の中で消えてきた。憎い相手を撃ったことも、憎くもない相手を金のために撃ったこともあった。面白半分に撃ったことすらある。
しかし、今感じている“撃たなければならない”という感覚は初めてのものだった。
数十メートルの距離を置き、自分の所在をはっきりと分かっているわけではない相手であるにも関わらず、脅威を感じていたのだ。
ここで仕留めなければ、間違いなく自分が殺されるという怯えの感覚。
老狙撃手は、努めて冷静に引き金を引いた。
この一弾を、あの獣人のこめかみに見舞ってやる。
ライフルが轟音をたてた。

 最初のライフルの銃声。そして立て続けに拳銃の発射音。
それが途切れたかと思うと、再び天井からライフルの轟音。
その残響音が静まった。
「仕留めたか!」
工藤は背広の襟の内側にクリップで留められた小さなマイクに向かって怒鳴った。
しかし、応答はない。
工藤の背中を冷たく細い糸が走った。しくじったのか。
「全員、北側だ!」
工藤は自分を囲んだ三人の手下を促して、車に乗り込こもうと踵を返した。

 狙撃手のはなった弾丸は、シルバーバックのこめかみを捉えていた。
しかし、その弾丸は、シルバーバックの剛毛をひとつまみまき散らしただけの効果しかなかった。
狙撃手は自分に向かって振り返るシルバーバックを見た。
その、怒りに燃える瞳を見た。
雲一つない澄んだ夜空に輝く、銀色の満月のような瞳だった。
 シルバーバックは天井に向かって跳躍した。弾丸が飛んできた方向だ。
こめかみに弾が当たった時は、さすがに脳味噌を揺すられるような衝撃を感じたが、それと同時に将人を撃った奴の存在と、奴がどこから撃ってきたのかが分かった。それゆえに、一瞬の迷いもなく飛んだ。
太い鉄骨の梁に、猫のように静かに着地した。
シルバーバックの爪先の、数センチ先にライフルの銃口がある。
狙撃手がスコープから顔を上げて、シルバーバックの姿を見上げていた。
 狙撃手の顔に表情はなかった。
撃たなければならないと思い、弾丸を放った。象ですら一撃で倒せる弾丸が、この獣人のこめかみに吸い込まれてゆくのを見た。命中したはずだ。それなのに、なぜこいつはここにいるのだ。
狙撃手は呆然としていた。
次の瞬間、獣人の足が自分の顔に向かって飛んでくるのが見えた。
 シルバーバックは、年老いた狙撃手の頭を前蹴りで粉砕した。
狙撃手の体がはげしく痙攣し、梁から空中へ飛び出した。
両腕で構えていたライフルが床に叩きつけられ、爆発の煙のように埃が舞い上がった。
狙撃手はライフルの反動に備えて、ロープで梁と自分を綱いでいたので、その死体は、ブランコのように揺れて垂れ下がった。
将人の仇は取った。
シルバーバックは、一息つくわけでもなく、ただそう思った。
倉庫を上から見降ろす。
車に乗り込む工藤と、彼のボディガードたちの姿が見えた。逃がすものか。
シルバーバックは車に向かって飛び降りた。

 「車を出せ!」
工藤は後部座席から、大きな声で怒鳴った。
運転手は言われるより前に行動を起こしていた。
右足がアクセルを踏み込む。
エンジンの駆動力が車軸に伝わり、タイヤが地面をグイと掴んだ。車体の後ろが沈み込む。
車がダッシュしようとしたとき、ボンネットに落ちてきたものがあった。
 天井に飛び上がった時と違い、シルバーバックは体重をかけて飛び降りた。
センチュリーのエンジンフードが足の下で大きくへこむ。
大きくうなりを上げようとしていたエンジンが、ラジエターから水蒸気を吹き上げて静かになった。
 センチュリーの車内にいた全員が、同時に見た。
フロントガラスの前にゴリラが落ちてきた。
運転席の男が最初に気付いた。これはゴリラではない。
体型は似ているが、頭は狼だ。
この車のフロントガラスは防弾仕様になっている。
変わり果てた姿で天井からぶら下がっている狙撃手が持っていたライフルの銃弾ですら、一撃では貫けない。
だが、ボンネットに飛び降りてきた獣人は、その拳の一撃で、フロントガラスを粉砕した。
工藤たちは決して広くはない車内で、腕と肩をぶつけ合いながら、拳銃を構えると闇雲に引き金を引いた。
車中が雷鳴に似た銃声の轟音と、無煙火薬の鼻をつく匂い、飛び散る空薬莢に満たされた。
だが、銃弾は何の力も持っていないようだった。
シルバーバックは無造作に腕を伸ばし、運転席の男の頭を握り潰した。
助手席の男はシルバーバックの伸ばした手をかわした。しかし、かわした腕がバックハンドで胸元に伸びる。
強い衝撃が助手席の男を襲う。粉砕された肋骨が心臓に突き刺さり、口から血が吹き出した。
 俺は死ぬんだ。
工藤は思った。そう考えながら、目の前で一瞬のうちに二人を殺した獣人に向かって拳銃を撃ち続ける。
絶対に俺は死ぬ。
それは安らかな死ではないだろう。
絶対に、俺は死ぬ。

 倉庫の中に潜んでいた拳銃使いたちの残り六人は、工藤のセンチュリーに向かって駆け出していた。
自分達の雇い主の車に、ゴリラのような獣人が乗っている。
獣人は、フロントガラスの割れた所から車内に上半身を突っ込んでいた。
六人は駆け寄りながら拳銃を撃った。
車の防弾装備は完璧だ。車中の工藤に弾が当たる心配はない。
工藤を守るのだ。彼らは正体が分からない、ゴリラに似た何かに向かって、弾丸を送り込み続けた。

 シルバーバックは車内に上半身を潜り込ませて前列のシートを引きちぎり、後部席の男を殺した。
残るは工藤だけだ。
工藤はシルバーバックに向かって、弾の無くなった拳銃の引き金を引き続けていた。
シルバーバックは工藤の拳銃を掴んだ。
指に力を込める。拳銃が粘土細工のようにぐにゃりと潰れた。
拳銃を握っていた工藤の指の骨も砕けた。
その痛みに、工藤は悲鳴を上げた。
「工藤さん。久しぶり、明だよ」
シルバーバックは発音に適さない形に変化した顎を、もどかしく動かしながら喋った。
 工藤の目が大きく見開かれた。
俺は殺される。明と名乗る化け物に。
 「俺のこと忘れたのかよ? あんたの弟を殺したせいで、あんたに狙われてる明だよ」
発声と共に下顎から唾が溢れるのが判った。
これでも工藤が答えなければ、あっさり殺してしまおう。
 そう思ったシルバーバックの、車外に残した下半身に拳銃弾が次々と突き刺さるのが感じられた。
上半身を車内に伸ばし、右腕で工藤の手首を握った不自然な姿勢で、外の様子を伺う。
相手は六人、車を囲んで銃撃を続けながら、包囲を狭めつつある。
「あんたの部下。勇気があるなぁ。あんたが彼らの立場だったら、逃げ出すんじゃないの」
工藤からの返事は、無かった。工藤が獣人を明と認識したどうかも分からない。シルバーバックの光る瞳を見つめて、荒い息を吐き続けるだけだ。
シルバーバックは工藤の手首を掴んだ指を放すと、大きく掌を広げ、工藤の胸元を掴む。
つきだした口吻の、上顎と下顎の合わさった辺りが醜くひきつる。
シルバーバックは、にやりと残忍な笑みを浮かべたつもりだった。
 六人は、遠巻きにセンチュリーを囲んで見つめている。
全員、弾倉が空になるまで獣人に撃ち込んだ。
獣人の動きは止まっている。やっけたのか。
油断のない視線を獣人に送りながら、六人は新しい弾丸を拳銃に送り込んでいる。
獣人が動いた。
センチュリーの屋根がブリキの板をぺろりとめくったように裂け、獣人が飛び出したのだ。
 獣人は、トランクの上に立ち上がった。右手には血の滴る生首を持っている。
それは工藤のものだった。
 拳銃使いたちの間に動揺が広がった。
銃弾を撃ち込んでもダメージを与えられない、剛毛に覆われた怪物。
怪物は一声吼えると、いちばん近くにいた男に飛びかかった。
男は拳銃をシルバーバックのわき腹に押し当て、引き金を絞った。
だが、怪物は銃弾にまったくひるむことなく、片手で男の首を絞めた。
骨の砕ける音がして、男の頭がありえない角度にがっくりと落ちた。
 それからはシルバーバックが思いのままに振る舞う、血の饗宴だった。
肉を引き裂き、骨を砕き、血を浴びた。
逃げ出した者は、追った。
誰も逃げ切れなかった。

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