16
ここにいた者は全部殺した。
納得したシルバーバックは、明の姿に戻った。
返り血で上半身は赤く染まり、生臭い殺戮の香りが全身から立ち昇っていた。
明は倒れている将人に近づいた。
利用するつもりだったのは間違いない。しかし、命を奪う気はなかった。自分を脅かす存在だと思ってはいなかったのだ。
パートナーになれればいいと考え始めていたのだ。
さびしかった。
そして、記憶を失ったまま、ここで倒れた将人が哀れだった。
明は膝を突いて、将人の顔に自分の顔を寄せた。よく見ておこうと思った。
もしかしたら、友だちになれたかもしれない。センチメンタルな感情の波が、胸を濡らしているのを感じた。
将人は左のこめかみを血に染めていた。出血が多く傷口が見えない。
両目は固く閉じられている。
明は、自分の心臓が大きく脈打つのを感じた。まさか。
将人の顔に自分の顔を近づける。
将人の耳打ちを待つように、口元に自分の耳を寄せる。
気のせいではない。将人の生命の火は尽きていない。
弱々しい流れではあるが、将人は呼吸をしている。
これもファラーのなせる技なのか。
そんなことより、明はただ嬉しかった。将人は生きている。
隆男は眠れなかった。今頃、明たちが工藤を襲っている。
パジャマには着替えたものの、横になる気になれず、リビングでカウチに腰掛けていた。
分厚いガラスのテーブルの上には、口を付けていないワイン。
ワインボトルを入れた銀のバケツの氷は、とうの昔に水に変わっている。
こんなに緊張しているのは生まれて初めてだ。
明の首尾を思い悩むのを止めるために、隆男はこの先を考えることにした。
明が工藤の息の根を止めたら、自分は工藤の後を引き継ぐ。
誰からも文句を言われずにそうするためには、工藤を殺したヤツを見つけ出し、落とし前をつけさせねばならない。
もちろん明をどうこうする気はない。犯人をデッチあげるのだ。
しかし具体的なアイディアは何もなかった。
麻薬の取引を明たちが襲った跡を見たが、誰にあんな事ができるというのだ。
戦闘のプロが数人がかりでやった仕事だ。どんな犯人を用意すればいいのか。
明はあの襲撃をどうやったのか。友人と一緒に、たった二人で。
結局、隆男は不安な気持ちになってしまった。
しかし、隆男は不安の原因に気がついた。
明たちの戦闘能力の高さが、その源になっているのだ。
今はいい。明は自分を慕っている。
このままの関係でいることができればそれでいい。
しかし、時が流れれば人は変わる。自分も変わるし、明も変わるだろう。
いつか、自分は明と敵対するかもしれない。
考えられないことだと済ませられるほど、隆男は人間というものを信じてはいない。
変節や裏切りは人間の営みにはつきものだ。
でも、この考えの結論は先送りだな。
結論といえない結論にたどり着いて、隆男はワイングラスに手を伸ばした。
その時、携帯電話が呼び出し音を立てた。
「はい」隆男はいつも名乗らない。返事をするだけだ。
「隆男さん……明です」
聞いたことのない口調だった。
いつも自信に溢れている明が、心許ない弱々しい声を出している。
「どうした」明に引きずられるように、隆男も緊迫した声になった。
「大急ぎで誰かよこして下さい……工藤たちは片づけたけど、将人が……」
「将人がどうした」
「……怪我を」
「どんな怪我だ? ……」心細げな明の声に影響されたのか、隆男も不安な声を出した。
自分のスケールが小さく見えたのではないかと、少し気になった。
しかし、明はそんなことには気がついていない。
「軽くはないけど……医者の用意はいらない。隠れ家まで連れてってくれりゃいい」
「分かった、すぐ行く」
隆男は電話を切った。
自分で行くしかないだろう。
工藤を殺した現場に自分の部下を派遣するわけには行かない。
秘密はどこから漏れるか分からないのだ。
隆男は全速力でベンツを走らせた。
明から電話が入って三十分もたたないうちに、街のはずれにある廃工場に着いた。
締め切られた鉄のドアの前をアクセルをふかしながら行きすぎる。
明に自分が着いたぞと合図を送ったつもりだった。
建物から離れた人気のない路地に車を止め、工場へ走ろうと車から降りる。
すると、路地の奥の暗闇から明がやってきた。背中に将人をおぶっている。
隆男は駆け寄った。
「どこをやられた」明の背中に乗せられた将人の様子を見ようと、首を伸ばした。
明は足を止めず、隆男の車に向かって歩いている。
「撃たれたんだ……頭を」
確かに、将人は頭部を赤黒い血でぐっしょりと濡らしている。
生きているようには見えない。奇跡が起きない限り、将人は二度とこの瞼を開けることはないだろう。
明はこの男の最期を見とってやるつもりなのだ。
そう気がついて、隆男は胸がじんと熱くなった。
明が考えていたのは全く別のことだった。将人は死なない。
こめかみが砕け、嫌な色の血に染まっている。が、弱々しいとはいえ息をしているのだ。
宇宙生命体ファラーは、永遠の命をもたらしてくれたのだ。
もちろん、手放しでそう信じていられるほど呑気ではない。
『気』だ。『気』を強めることが必要なのだ。そうすればファラーがさらに活性化し、将人の傷を劇的なスピードで癒してくれるに違いない。
隆男はベンツの後部席のドアを開けた。
明は本革のシートに血が付くのも構わず、将人の体を横たえた。
こいつのために何をしてやったらいいのか。
将人の横顔を見下ろしながら、明は考えた。
「車を出すぞ。早く乗れ」
隆男は明の背中に手をかけて、助手席に乗れと促した。
血まみれの男をかかえたまま、ここに車を止めているわけには行かない。
明が将人の上から動こうとしたとき、将人の唇が弱々しく動いた。
明の視線は将人の唇に釘付けになる。
将人は何を言おうとしているのか。
あまりに弱々しく、声になっていないが、将人は何かを言っている。
いや、呼んでいるのだ。明は直感で、そう感じた。
女か? 女だとしても、誰を呼んでいるのか。
母か、恋人か、妹か? 将人の記憶が戻ろうとしているのだろうか?
隆男も将人の唇の動きに気がついた。
死の瞬間に立ち会うのは初めてではなかった。
暴力沙汰で誰かが死ぬを何度も見ていた。
頭の砕けた男が喋ろうとしている。
ありえない生命力の強さだ。鍛え上げられた格闘家とは、こんなに強靭なものなのか。
そんな男の最期の言葉は、なんだろう。
将人が身内でもないのに、隆男は感傷的な気分になった。