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 前沢はたった一人で、警察署の捜査課の部屋にいた。デスクに向かい、くわえ煙草のまま、無為に時を過ごしていた。
しかし、彼の頭脳はこのだらけた姿とは裏腹に、目まぐるしく回転していた。
 この街に何が起こっているのか。
前沢は警察官として、この街の治安を維持しようと力を注いできた。
山野組という暴力団が、歓楽街の裏側に根を張り、違法な商売で利益を上げていることも知っていた。
彼らの持つ資金が権力となり、警察にも議会にも影響を及ぼしていることも知っていた。
決して見過ごすことのできない事実だが、やつらは尻尾をつかまれるような証拠を残したことがない。
つまり、暴力団との癒着はうわさ話のレベルでしかないのだ。
警察組織にいる前沢は、それが噂でしかないなどとは思っていない。
しかし前沢にとっては組織的な不正を暴くことより、普通の暮らしをしている市民の安全を守ることが大事だった。そのために奉職しているという強い自覚がある。
そんな彼にとって今のこの街の状況は、タイムリミット寸前の時限爆弾が足の下でコチコチと時を刻んでいるような気がしてならない。
暴力団をのさばらせておくべきではなかったのだ。
 事の起こりは悦子というホテトル嬢とチンピラ男の心中だった。
車ごと大須埠頭に飛び込んだように偽装したつもりだろうが、心中には見えない。見事に失敗した偽装。
これまでに起きた同様の事件では、山野組から犯人が自首してきた。事件と組にはなんら関係はなく、単に三角関係がもつれたのだと主張しながら。
その裏には何か事情があるのだろうと思いながら、警察としてはそれを詮索しないままで事件に幕を降ろす。
亡くなった若いカップルは、山野組の金に手を着けたのだろう。そう思いながら。
しかし、今回は犯人の自首はなかった。
誰にでも見破れる、ずさんな偽装工作があっただけだ。
さらには廃墟となったボウリング場での、銃撃戦。
身元のわからない外国人の死体が混ざっていた。
山野組の覚醒剤取引を誰かが襲ったに違いなかった。
 何の根拠もなく、前沢は二つの事件はどこかで関連し、さらにこの先も死体がでてくると確信していた。“勘”というやつだ。
チンピラの心中と山野組襲撃。どこにも共通点はない。いや、唯一の共通点は、どちらも犯人の目星が付いていない。歓楽街のはずれのドブ板通りにたむろする事情通の連中の間にすら、噂も流れていない。つまらない憶測や、誰かの足を引っ張ってやろうという思惑が入り乱れ、確認のとれない情報が街に氾濫するはずなのだ。
しかし、みんな口をつぐんでいる。
ギャンブル狂の情報屋も、組関係に顔の利く県会議員の第二秘書も、何も知らないからだ。
 そんな中でまた事件が起こった。
時折、不良少年たちが入り込んでシンナー遊びにふけったりする街はずれの廃工場で、複数の死体が発見された。不良たちがボヤでも起こしてないかと、早朝の巡回中だった警官が発見したのだ。
工場中に飛び散った血糊。銃撃の痕跡。破壊された死体。
今度は何人殺されたのかまだはっきりしない。
鑑識課の連中が、顔をしかめながら調査中だ。死体は引き裂かれ、バラバラになっていた。何人分あるのか。見当も付かない。
前沢も現場に飛び出していこうとしたが、上司から居残りを命ぜられてしまった。事件が山野組絡みの様相なので、組からの利益供与に関心のない彼ははずされたのだ。事件からはずされるのは慣れっこになっているのだが、悔しさを感じないわけではなかった。

 きしみの出てきた古いドアを乱暴に押し開けて、現場から刑事たちが戻ってきた。
静かだった部屋が、喧噪と活気に包まれる。わざと陽気な声を張り上げて現場の状況を話す者がいる。事件に関係ないギャンブルの話をする者もいる。現場の凄惨さの反動が、この雑然とした雰囲気を生み出しているのだ。
短くなった煙草を、吸い殻でいっぱいになったアルミの灰皿に潰すように押しつけて、前沢は立ち上がった。勘を信じて、自分なりに動いてみようと思った。
まずは、殺された悦子の身元を確認に来た火灯美という女に、もう一度会って見よう。
書類ロッカーに立てておいたファイルから火灯美の連絡先を調べ、電話をかける。しかし、呼び出し音が受話器の中で響き続けるだけだった。
諦めて受話器を置いた前沢の耳に、同僚たちの会話の信じがたい一節が飛び込んできた。
廃工場に散乱していた死体のうちで、最初に身元が確認できたのは、山野組の実質的ナンバーワン、工藤だというのだ。
これは新たな抗争事件の始まりなのか。
前沢は身震いした。暴力団同士が戦い、どれだけ血を流そうが構わない。しかし、大規模な抗争はいつか一般市民を巻き込み、罪もない人々が命を落とすことになる。
 前沢は立ち上がった。一刻も早く火灯美に会うつもりだった。しかし、彼女からどんな手がかりを掴めるかは、まったく見当がつかない。これも“勘”なのだ。

 火灯美のアパートは街の飲食店街の近くにあった。古びた木造二階建て。
前沢は正面に車を止めた。
まだ午前六時。仕事に出ているのか、眠っているのか。
どちらにしても、直接火灯美の住まいまでいけば何とかなる。
そう思って車を走らせてきたのだ。
 火灯美の部屋は二階の奥の角だった。
ドアの前に立ってチャイムを鳴らしたが、返答はなかった。
部屋の中にチャイムが響いているのがドア越しに聞こえるだけだ。
数回試したが、本当に留守のようだった。
念のため、ドアをノックしようと手を挙げると、隣の部屋のドアが小さく開いているのに気がついた。
隣室のドアが慌てて閉まる。
前沢は隣のドアの前に立って言った。
「警察の者です。隣の部屋の人に用があったんですが」
言葉を切って、様子を窺う。ドアの向こうで誰かが息を殺しているのが感じられた。
前沢は警察手帳を出した。
「ドアを開けてください。手帳を見せますから」
やや間があって、小さくドアが開いた。チェーンが吊り橋のようにドアと柱を繋いでいる。
前沢は、ドアを押さえているがりがりに痩せた男に警察手帳を見せた。
男は二十代半ば位の歳だろうが、どんな荒んだ生活をしているのか、やせ細り、肌はサンドペーパーのようにがさついていて精気がなかった。シンナーか覚醒剤の常用者だろうか。それとも夜更かし好きのフリーターか。
男は、じっと黒い皮の表紙を見つめている。
「お隣さんは留守ですか」
前沢が尋ねると、男はおびえたように肩を震わせた。
視線を警察手帳の表紙から、前沢の顔に移す。
「……連れていかれたよ。暴力団の連中だと思う」
「誘拐されたのか」前沢が気色ばむ。
「いや、連れていかれたんだ。誰かを彼女に会わせたいらしくて……そう言っていた」
「暴力団の連中が誰かに会わせるといって、お隣さんを連れて行ったのか?」
「ああ。いかついのが二三人来てたんだ。そいつらが……ここ、壁が薄いだろ。ちょっと大きな声出すと聞こえちゃうんだよ」
「何でその時に警察を呼ばなかったんだ」
暴力団に関わり合うのが嫌だから。そう答えるに決まっているのに、あえて前沢は尋ねた。返事によっては、誘拐幇助罪だ、などと声を荒げて、この男を脅かしてやるつもりだった。犯罪を見過ごす奴は嫌いだった。
「だって、彼女、おとなしくついて行ったんだぜ」
ついて行った。なぜだ。
火灯美と山野組の関係が分からなかった。
「ねぇ、刑事さん。いったいどんな事件なんだい」
男は好奇心に満ちた目をきらきらさせていた。
顔色の悪さと相まって、異様な形相に見える。
きっとこの男、さっきのようにドアを細めに開けて、廊下の様子を窺っていたに違いない。
「こっちの質問に答えてくれたら、捜査に支障のない範囲で教えてあげるよ」
前沢はメモを取るために手帳を開いた。

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