18
気がつくと、将人は道場に座っていた。両膝を揃え、磨きあげられた板張りの床に正座している。木の香りと、ワックスの匂いが鼻の奥に届いてくる。
将人は拳王流の道場の中央に一人で座っていた。
いつの間に帰ってきたんだろう。
心のどこかで不思議に思いながらも、久しぶりの我が家に心が安らいだ。
立ち上がって辺りを見回すが、誰の気配もない。
自分や道場の仲間達のスナップ写真を貼ってあったコルクボードは取り外されてしまったようで、そこだけが日焼けしていない壁の色を見せていた。
何気なく足もとに目をやって、将人は驚いた。
ぴかぴかだったはずの床に、埃がうっすらと積もっている。まるで、長い間誰もここに立ち入っていないかのように。
俺はここに帰っていなかったんだ。なぜか、将人は納得した。
しかし、誰もいないのは納得がいかなかった。留守をあずかる者がいるはずなのに。
将人は奥の階段に向かって歩き出した。二階の自室に行ってみようと思ったのだ。
足を踏み出すと、窓の外からのまぶしい光が目に入った。
おかしい。道場の南側の大きな窓の外には、木が植えてあるはずだ。緑のカーテンが直射日光を遮ってくれるはずなのだ。
しかし、床の上には空間をざっくり切ったように、日差しが白い大きな四角形を描いている。
将人は窓際に立って外を見た。
ガラスの向こう側には、まるで土木工事の途中であるかのように掘り返された、赤茶けた土の荒野が広がっている。しかし、ブルドーザーなどの工作機械の姿も、働く人影も見えない。
何が起こったのだろう。
自分がどうやってここにたどり着いたかも分からないまま、疑問はどんどん大きくなってゆく。窓の外の様子を見ていると、この拳王流道場もそう遠くないうちに取り壊され、埃っぽい荒野の仲間入りをするようにも思える。
将人は自分が浦島太郎になって、時の流れの先に行ってしまったような気持ちになった。
ふと顔を上げると、将人は二階の自室にいた。いつの間にここに上がったのだろう。
寂しく落ち込んだ気分だったので、気がつかないうちにここに来たのか。まるで瞬間移動をしたようだった。
部屋の中は、将人の記憶のまま、何も変わっていなかった。
パソコンデスクの位置も、壁に貼った写真も、机の上に転がしたペンの位置も。
信頼していた自分の弟子、瀧道行に呼び出され、出かけた時のままだった。
将人は思い出した。
瀧に呼び出され、そして、拉致されたのだ。
瀧に呼び出されたのは人気のない公園だった。
公園に着くと、突然現れたサングラスに黒服の男たちに囲まれ、拳銃を突きつけられた。男たちの正体はわからなかったが、どうやら自分を殺すつもりはないようだったので、隙を窺うつもりで抵抗はしなかった。
男たちの背後から、瀧が姿を現わした。
道場は俺に任せておけよ。瀧はそう言って、天を仰いで笑った。
その直後、全身を電撃が貫き、痛みを感じるより先に意識を失った。
スタンガンを使われたのだ。
瀧。ヤツはこの道場を売り払ったのか。
怒りが沸き上がってきた。
が、次の瞬間、背後からの人の気配に振り返った。
そこには九条麗が立っていた。
元気いっぱいで、どちらかというと太めの娘だった麗が、すらりと伸びた体を、淡い黄色のワンピースに包んで立っていた。
綺麗になったな、と口に出そうとして、麗の変貌から、ここに戻ってくるまでの時間の長さに気がつき、言葉を失った。
麗は将人に目を向けているが、将人が見えていないようだった。
彼を通り越して、机の上あたりで視線が焦点を結んでいるのが将人に分かった。
「麗」
返事はない。やはり、自分の姿は見えていないのだ。
将人は麗を見つめたまま、返事をするのを忘れて突っ立っていた。
ここに来るまでの間に、自分に何が起こったのか。
将人は、めまいのような感覚に襲われた。
人は死の寸前に、今までの人生を一瞬のうちに見るという。まるで走馬燈のように。将人を襲った感覚は正にそれだった。
強く、厳しかった父が甦り、優しかった母のぬくもりを感じ、時に生意気で邪魔なヤツだと思ったがかけがえのない弟、剛。厳しかった拳王流の修行。父が嬉しさに破顔していた道場の完成。学校の入学式。授業。卒業式。友達との悪ふざけ。喧嘩。初恋も初めての失恋も、一瞬のうちに将人の脳裏を駆け抜けた。
一子相伝、拳王流の後継者を決める試合を棄権した剛。
そして……
将人は思い出した。自分がデスファードであること。剛を殺そうと拳を交えたこと。そして、剛も自分のようにファラーに寄生され、ガイファードとなっていること。
秘密結社クラウン。科学者、紫苑。やつらが将人の人生を滅茶苦茶にした。将人ばかりか、弟の剛までも巻き込んで
ガイファードとの戦い。血を分けた弟の剛との戦いは、自ら望んだものではなかった。紫苑の意のままに操られていたのだ。だが、剛との戦いの最中に、紫苑のコントロールを断ち切ろうと思った。
剛との決着を付けたくはなかった。その気持ちが、コントロールにまさったのだろうか。
そして地下秘密基地の爆発に巻き込まれ、記憶を失ったのだ。
今、当たり前のように胸の中を通り過ぎてゆく、自分の人生の記憶。その総てを今まで失っていたのだ。
さらに将人は、記憶を失っていた間のことを追体験した。
その回想は鮮烈だった。
頭に食い込んでくるような、鋭く、尖った衝撃。
そのまま意識がブラックアウトするように回想が終わる。
麗はまだ将人の方を見ている。しかし、相変わらず将人の姿がその目に映っていないようだった。
無理もないことだ。将人の胸はしんと冷えてゆく。俺は死んだのだ。だから麗からは姿が見えない。
いきなり飛んでしまった時間も、自分が霊体になってしまったと思えば、納得がいく。
「将人さん?」
麗が呼びかけた。しかし、その視線はあいかわらず宙をさまよっている。
「麗。俺はここにいる!」
「将人さん……帰ってきたの?」
麗が将人の方に手を伸ばしてきた。
将人は手を合わせるように、恐る恐る腕を伸ばした。
麗の手のひらに自分の手のひらが近づいてゆく。
将人は、麗のぬくもりを期待した。
しかし、麗の手のひらを自分の指が突き抜けてしまう。なんの感触もなく。
明らかに麗も、何も感じていなかった。
将人は泣きたくなかった。あふれてくる涙を必死に押さえようとした。
麗に涙を見られたくなかった。
だが、押さえきれなくなっても、麗には自分の涙は見えないのだ。
そう気がついて、さらに悲しくなった。
麗がのばした手にすがりつくように将人は倒れ込んだ。
麗の指先が自分の胸の中に食い込んでゆく。
そのまま床に倒れて、体を丸め、頭を両腕で抱え込むようにして、子供のように泣きじゃくる。
将人は完全に孤独だった。
しかし、泣きじゃくるうちに、ほんのりとした淡いぬくもりをほほに感じた。
独りではないのかもしれない。