明と将人は街道に沿った小さなバス停にいた。錆びて文字が読めなくなった停留所の標識。埃の積もった木のベンチの上には、申し訳程度の屋根がある。軒にぶら下がった裸電球には、灰色の小さな蛾が鱗粉を振りまきながらまとわりついていた。
明たちは一時間半に一本のバスを待っていた。
将人は街道とは名ばかりの、人も車も通らない道に漫然と目をやっている。
記憶を失っている将人は、ここまで歩いてくる間ずっと黙ったままだった。
 バス停に向かう途中、明はジュースの自動販売機の前で立ち止まった。カラフルなペットボトルや缶の見本を納めたアクリル板に、小さな虫が明かりに導かれてたかっていた。
「ノド、乾いたよな」
明はにっこり笑うと、将人の返事を待たずに自動販売機のコイン投入口のそばにあった鍵穴に指を突き入れた。
まるでバターの塊に指を入れたかのように、ずぶり、と突き刺さる。
将人は、目を見開いて見ていた。
明は指をぐるりと回し、ロック部分を壊して、自動販売機を開いた。コインボックスに手を入れて、小銭をつかみ出すと、販売機を閉じた。
「何が飲みたい? 好きなモン言って」
明は、小銭を入れ、ブラックコーヒーのボタンを押した。
「将人は何にする?」
将人は驚いて黙ったままだ。
「なんで固まってンだよ。びっくりしてンのか? ……おまえだってできるぜ」
「まさか……」
「やってみなよ」
明はコーヒーの缶を開ける。
シルバーバックの牙が突き出した口吻では飲めないな、と思いながら缶に口をつけた。
将人は自動販売機の横腹に手のひらを触れた。
力を入れて押す。ぐにゃりと鉄板が曲がって、手形がプレスされた。
「な、できたろう」
将人は自分の手のひらと、自動販売機についた手形を交互に見ている。
「……これは?」
「おまえはガイボーグなのさ」
「ガイ、ボーグ?」
「普通の人間とは違う力を持っている」
「普通と違う……」
 それから将人は黙ったままだった。
 バスがやって来た。
明は将人を促して立ち上がった。将人の背中を押して、バスのステップを登らせる。
バスの中はがらがらに空いていた。
いちばん後ろの席に、小学生の男の子が一人、眼鏡を押さえながらテキストを読んでいる。
明と将人は、男の子から二列前の二人掛けの席に並んで腰を下ろした。
バスが動き出す。
「どこへ行くんだ?」
不安そうに将人が尋ねた。
「駅へ出てそれから電車だ。俺の生まれた町へ行こう。おまえの記憶が戻るように、力を貸すよ。その代わりと言っちゃなんだが、俺の仕事を手伝ってくれ」
明を見つめる将人の目には、不安の色。
俺を信じろ。明は目で訴えた。
目で訴えた後は、軽く微笑む。昔はそうやって女をモノにしてきた。
もちろん、そのテクニックを将人に向かって使いはしない。
「初めのウチは苦労もあるだろうけど、いい暮らしさせてやるよ。そしたら落ち着いて、記憶を戻す治療ができるさ」
 クラウンから脱出して、故郷に帰ろうと、明は決めていた。
人口が二百万ほどの、賑やかな地方都市。
仲間たちと詰襟のまま、タバコをふかしながらコーヒーを飲んでいた喫茶店。
仲間たちと、鹿の角のようにハンドルを曲げ消音器をはずしたオートバイを連ねて、騒音を撒き散らして走り回った国道。
女を働かせたソープもある。
そして、明の属していた組織もある。
明が町を出る原因となった事件の思い出もある。明の胸の中と、明が殺した男の兄の胸に。

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