池田隆男は、この町ではけっこうな顔だった。町の中央に位置するターミナル駅の南側に広がる繁華街では、一銭も使わずに飲み食いが出来る。
隆男は山野組の若頭補佐。組織での地位はナンバー・スリーだ。まだ四十にもなっていないが、出世している。
 隆男は夕方に協和建設の本社に顔を出す。重役出勤だ。本社で社員たちから昨日の報告を受け、町に出かける。
協和建設というのは、山野組の表向きの顔。社員たちといっても名ばかりで、雇用関係などはなく、組員バッチを持っている。
 何事もスマートにすすめたい隆男は、仕立てはいいが目立たないスーツに身を包む。移動の足は、運転手つきのベンツ。色はシルバー、ガラスには薄くスモークが入り、ヤクザの車には見えない。もちろん、運転手にもそれ風の服装は許さない。
 移動中の隆男は、青年実業家が礼儀正しい後輩を運転手に使っている様に見えるはずだ。しかし、この町に隆男を知らない者はいない。
 繁華街の東側のはずれにある会員制クラブ「ヴィジョン」の前に、隆男を乗せたベンツが停まった。
磨き上げられ、層を重ねたワックスのために濡れたように光るボンネットが、ネオンのピンク色に染まっている。
後部席のドアを開けて隆男が降り立った。
それと同時に、ヴィジョンの重そうな木製のドアが開き、ホステスの亜矢子が顔を出した。
ドアの上にある小さな監視カメラから店の前が見渡せるようになっているので、隆男が来ると必ずドアを開けて出迎えるのだ。
 亜矢子の横を抜け、隆男はタバコの煙と酒の香りが充満した店に入っていこうとした。
「珍しい人が来てるわよ」
亜矢子が囁く。
気にした様子もなく、隆男はそのまま店に入って行く。
目の動きだけでフロアを見渡しながら、奥へと進む。
金を持っていそうな上品な老紳士が、ボックス席で若いホステスと飲んでいる。
いつもの光景だ。
 「珍しい人」は一番奥のボックス席にいた。
隆男の知らぬ男と一緒だった。ホステスがつくわけでもなく、二人だけでビアタンブラーを目の前に所在なげにしている。
明。隆男は口の中で呟いた。
なぜ、この町に戻ってきた。
明が隆男に気づいた。嬉しそうに笑みを浮かべ、小さく手を振る。
憎めない奴だ。隆男は明が好きだった。
隆男は、大またでボックス席に近づき、明の向かい側に腰をおろした。
「なんで戻ってきた」
「いつまでも逃げていられないと思うンです。隆男さん。俺、工藤さんと決着つけるつもりです」
明は何を考えているのか。隆男は不安になった。
 工藤というのは、山野組の若頭。隆男としては頭の上がらない兄貴分に当たる。
半年前、明はつまらない因縁をつけてきた若者を、殴り殺してしまった。その相手が、工藤の弟だった。
工藤は、弟の復讐を誓った。失った命を命で贖うのだ。
明をかばいたがった、隆男にはどうしようもなかった。
明が町から姿を消したと知ったときは、ほっとした。
山野組の直系が治めている地域に足を踏み入れなければ、無事に生きていけるだろう。
なのに、明はなぜ戻ってきたのだ。
若頭である工藤と決着をつける。工藤に何らかの危害を加えれば、山野組を敵に回すことになる。そうなれば、自分が明の息の根を止めねばならなくなるのだ。
 隆男は黙り込んでしまった。
明の顔が隆男に近づく
「隆男さん。この町、あなたの物にしませんか」
声をひそめて持ちかけた。
隆男の背筋に冷たい物が走った。誰だってナンバー・ワンになりたい。だからこそ上に立つ者は、自分の足元を脅かす存在を許さないのだ。
「おまえ、何を考えてる」
「工藤さんに消えてもらって、隆男さんが組を仕切る。簡単な話でしょう」
「工藤に何かあったら、組を敵に回すことになる。そんなことが巧くいくと思っているのか」
巧くいくわけがない。巧くいくなら、やってもらいたいのが本音ではあるが。
「工藤さんが仕切ってるクスリのルートをぶち壊すんですよ。そして、工藤さんに消えてもらう。そうすれば、繰り上がるでしょ」
言うのは簡単だ。隆男は明に言われたとおりのことを夢想したことがある。思うのはたやすく、行うのは難しい。
隆男は明の連れている男が気になった。二人の話にはまったく興味がないようだ。視線はビールの泡を見つめている。
 将人は明に連れられて、ヴィジョンに入った。
タバコの煙、酒、肌をあらわにしながら上品さを失わない女、心を落ち着かせるクラシック音楽。そのすべてに馴染めなかった。記憶を失う前に自分がいた世界とは違うようだ。
漠然とそう思って、ビールの入ったグラスを見つめている。炭酸の中の小さな泡が黄金の表面に浮かんで、はじけて消える。自分の記憶のように。
 「明。おまえがどうやろうと構わない。俺はおまえに関わりたくない。好きにすればいい」
隆男は一旦断ってみた。明の出方を見て、手の内を読みとるのだ。
明の表情がほんの一瞬曇ったようだった。
 まだ食いつかないのか。隆男は工藤にびびる男ではないはずだと、明は思っていた。
隆男は上昇志向のない男でもない。そして、慎重な男でもない。
焦りを表情に出さず、なんでもない表情を作ろうとした。
隆男と対等の立場に立ちたがっているように見せるのだ。もちろんそんなことを隆男が認めるわけはないのは判っている。
しかし、最初から下手に出れば、警戒心を呼び起こす。
自分を跳ね返ったちんぴらに見せかけ、隆男に利用されるのだ。
 「どうする」
と、明は頼るように将人を見た。
「こいつは誰なんだ」
隆男は尋ねた。明の仲間にしては、物静かでタイプが違っている。
「同じ釜のメシ食った、仲間で、将人」
「明、コイツと二人っきりで、工藤とやらかそうっていうのか」
「ええ」
隆男は将人の方に状態を乗り出した。
「将人」
将人の視線がビールの泡から持ち上がった。
「あんた、明に命預ける覚悟があるのかい」
将人は明を見る。
「俺は、明に力を貸す」
明と将人が見つめあった。
 明と将人は行き場を失っている。隆男はそう思った。
こいつらは暴力を使い、自分の満足のいく暮らしをすることしか考えていない。そのために工藤を消す。
 明は隆男の「腕」だった。自ら暴力を振るうことを極力避けてきた隆男にとって、明のように筋肉質で、動きの速い腕は大変重宝した。
だが、速すぎたせいで工藤の弟を殺してしまった。
 隆男はにやりと笑った。
「帰れ……と言ってもそこら辺をうろうろされて、組の連中に見つかったらエラいことになるからな。明日の朝まで隠れてろ」
テーブルの上から取ったペーパーナプキンに、ホテルの名前を書き込んで明に渡した。
「そこにいろ。後で連絡する」
明は手応えのない紙っぺらに目を落とす。
隆男は財布から数枚の札を抜き、明に渡した。
「車代だ。見つからないように裏口から出て、タクシー拾え」
隆男が席を立った。明の方を振り返らずに、バーカウンターに向かって歩いて行く。
他の客はいない。隆男の指定席なのだ。
 「行こう」
明が立ち上がった。将人も立ち上がる。

 明と将人は、ヴィジョンを出てタクシーを拾った。明が拾って運転手に行き先のホテルを告げると、えっ? と聞き返された。もう一度、ホテルの名を言うる。
運転手は返事のかわりににやりと笑って、車を走らせた。
タクシーは繁華街の外周の国道を西へ向かった。
繁華街のネオンが後ろに去ってゆく。国道の左右はパチンコ屋とファミリーレストランだ。
タクシーは高速自動車道のインターチェンジ近くのラブホテルが立ち並ぶ路地に入っていった。
運転手が笑った理由がわかった。
 ホテルのフロントは無人で、部屋の写真が表示されたタッチパネルで部屋を選ぶ。もちろん、明と将人は別々に部屋を取った。それも最上階の料金が一番高い部屋を。
 明はキングサイズのダブルベッドに横になって、天井を眺めていた。男女が睦み合うためのベッドは、一人で寝るには広すぎる。
もちろんバスルームも広い。ベッドルームとバスルームの間の壁は素通しのガラスになっていて落ち着かない。
 このホテルは一回にパーティ専用のスペースがあり、隆男が賭場を開帳したり、ドラッグパーティーを開くのに使っている場所だ。隆男自身は博打もクスリもやらないが、町の政治家や会社のオーナー連中へのささやかな接待だ。
こうして隆男は実力者を手なずけている。計算高い男なのだ。山野組の看板を使いながら、自分自身を売り込むことも忘れない。
明は隆男のパーティのために、女を調達したことが何度もあった。水商売の匂いのしない、すれてない女を求めるパーティ客もいるからだ。
明も従業員の立場なので、パーティに参加したことはなかったが、一度参加して次回の招待を断わった者がいないといわれるほど、忘れられない快楽があるらしい。
明はベッドから身を起こした。ヘッドボードの電話を掴む。真鍮の飾りがついた受話器だ。
明はフロントに電話して女を呼んだ。ただ隠れていては息が詰まる。金は隆男が払ってくれるだろう。
もちろん将人の分も忘れなかった。

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