5
将人は眠っていた。右側を下に横向きになって、体をくの字に曲げていた。
眉間には太い皺、苦しい夢を見ている。
夢の中で将人は黒い影をまとい、青年を相手に戦っていた。
俺は誰と戦っているのだ。
戦いを見下ろしている将人の意識は問いかけた。
だが、その問いかけには誰も応えない。
青年は将人の蹴りを受け、ごろごろと地面に転がる。
だが、将人にはわかっていた。青年は強いのだ。こんな蹴りに倒れるような男ではない。戦いを避けようと、真の力を見せていない。
なぜ、彼は戦おうとしないのだ。黒い影となった将人はいぶかしんでいた。
しかし、その光景を見下ろしている将人の意識は理由を知っていた。
彼と将人は戦って雌雄を決さねばならない運命だったが、その運命にそむきたかった。だから、青年は将人の前から姿を消していたのだ。
なぜ戻ってきたんだ? 今度は将人の意識が問いかけた。
「やめて!」
張りつめた空気に、女の声が響いた。影の将人が、声の方を見る。
そこには髪の長い十代後半の娘と、その弟らしい少年が立っていた。
麗。優。将人はその二人の名前だけは知っていた。しかし自分との関係は思い出せない。
倒れていた青年が立ち上がる。全身に「気」が満ちあふれているのがわかった。
彼は戦う気持ちになったのだ。
青年の全身からまばゆい光がほとばしった。
将人の意識は、網膜が焼けるような感覚を覚えた。戦いたくない。
光の中でそう思った。俺達が拳を交えなければならない理由など、ない!
彼は俺に勝者の地位を譲っていたではないか、なのになぜ俺は戦おうとしているのか。
光があふれて、何も考えられなくなった。
スイッチを入れられたロボットのように、唐突に将人は目覚めた。
先端を赤く染めた髪を両肩に垂らした丸顔の女が、あどけない表情で将人を見つめている。
年齢は二十歳前後か。手には部屋に備え付けのノートとペンを持っている。
女は張りのある乳房をぷるんと揺らしながら、ノートを降ろしてふっくらとした下腹部の茂みを隠した。
「眠ってたから、先にシャワー使っちゃったよ」
照れ隠しのようににこりと笑った。
女はベッドカバーの端を持ち上げて、将人の横に柔らかい身体を滑り込ませた。
将人は何が起こっているのかわからなかった。この女は何者だ。
「君は?」
「呼ばれてきたの。お金は隣の部屋の連れの人にいただいてます。……ね、自分の寝顔を見たことある?」
女はノートを将人に見せた。繊細なタッチで将人の横顔が描かれている。眉間に深く皺を寄せ、安眠とはほど遠い表情だ。
「ね、恐い顔して寝てるでしょ。……どうしようかと思った」
「絵、上手じゃないか」
女を安心させようと、優しく話しかけた。
「上手なのは絵だけじゃないよ……シャワー、浴びておいでよ」
「そんな気持ちじゃないんだ」
女と将人は一瞬見つめ合った。
「でも、あなた汗くさいよ……ね、シャワー浴びて」
女は将人を起こした。
彼女は、火灯美という名だった。
イラストレーター志望で、女は良妻賢母であるべしと信じている父親と衝突。今はホテトル嬢だ。火灯美という名前は、文学(火灯美に言わせるとブンガク)に傾倒している、教師の父親がつけたものだ。
もちろん、将人はそんなことは知らない。
ベッドやソファなど調度品は違っているが、広さと造りは明がいる部屋と同じだった。なので、火灯美はベッドに横になったまま肘を突いて、シャワーを浴びる将人をながめていた。
ギリシャの彫刻のような、バランスのとれた筋肉質の身体だった。
火灯美は元々セックスがあまり好きではなかった。
今、隣の部屋で明に抱かれているだろう、ホテトルの同僚、悦子は、冗談混じりに自らを淫乱と呼ぶが、火灯美にはその気持ちが分からない。
それはほんとうのエクスタシーを知らないからよ。
火灯美より年下で、まだ十代の悦子にそう言われても、何の感慨もなかった。
セックスで感じたいと思ったことがなかったのだ。
この仕事は、楽に稼げる肉体労働以外のなにものでもない。
彼女はこれでクスリ代を稼いでいる。
彼女のミルク色の肌に注射針の後がないのは、アルミホイルに乗せた覚醒剤をアルコールランプで炙って、鼻から吸っているからだ。
注射の方が効くのは知っているが、やめられなくなりそうで怖かった。鼻から吸っている限りはいつでもやめられそうな気がしていた。だが、それが大きな間違いであることに、彼女は気がついていない。
火灯美は、将人の身体をながめているうち、抱かれてみたいと考え始めていた。
こんな気持ちは初めてだ。渇きではない。純粋な興味だろうか。
自分でも不思議だった。しかし、抱かれなかったからといって、欲求不満に悶々とすることもないだろう。これは欲望なのだろうか。
バスタオルで水滴を拭いながら、将人がバスルームから出てきた。
将人は自分の身体を隠すでもなく、ごく自然にベッドに腰掛けた。
「素敵だわ。その身体」
火灯美が体を起こす。その曲線から布が滑り落ち、乳房をさらした。
「ありがとう」
将人の声が、火灯美の背筋を電光のように駆け抜けた。
火灯美は将人の腕に抱かれ、厚い胸板に頬を押しつけたくなった。
性的な欲望だけではない。将人の優しさが欲しかった。火灯美は将人に抱きついた。
すべてを将人に預ける。自然と右手は将人の股間に延びた。
掌で包むように反応を確かめる。
突然投げかけられた体の重みに、将人はとまどった。が、両腕は反射的に彼女の背中にまわる。女が体を押しつけてくるのがわかる。互いの体温が溶け合うようだ。
火灯美は目を閉じる。肌に感覚を集中する。
将人も目を閉じた。その瞬間に、さっきまで見ていた夢がフラッシュバックした。
青年との戦い。麗。優。君たちは誰なんだ!
続いて、酷薄な表情の白衣の女が浮かび上がった。
将人を見つめる冷たいその目は、実験台の小動物の反応を見る科学者のもの。
火灯美は掌の中で反応しようとしていたものが萎えるのがわかった。
でも、このまま将人に身を寄せていたかったので、身体を動かさなかった。
まだ互いの名前も知らない二人だったが、黙ったままぴったりと体を押しつけあっている。
女は安らいでいる。しかし、男は不安に近い戸惑いを覚えていた。
浮かび上がってきた記憶の断片は、何を意味しているのか?
火灯美が目を開けると、苦しそうな将人の表情が目に入った。眠っているときと同じだ。
「つらいの?」
将人が目を開け、火灯美を見た。怯えたような、困惑の色を浮かべた目。
「どうしたの」
「俺は……自分が誰なのか、わからないんだ」
将人がぽつりと言った。
「記憶喪失……何も思い出せないの?」
火灯美は将人がいとおしくなった。この人は困っている。何かをしてあげたい。
「コマ切れの、何だかわからないものが俺の頭の中に浮かぶんだ……」
「考えない方がいいよ、何も」
火灯美が体を押しつけたまま、体重をずらした。将人に覆い被さるように、ベッドに横になる。
「しばらく、こうしてよ」
火灯美は、将人の胸にしがみついた。彼の中にある苦悩のようなものが、自分の体で吸い取れればいいと考えながら。
隣の部屋では、明は悦子を吸い尽くすように楽しんでいた。久しぶりの女だった。
頭の中で紫苑をなぶるより、本物の女の方が数倍良かった。多少見てくれが劣っていても、体の温もりは心地よい。
終わった後、明は部屋から悦子を追い出し、ゆっくりとシャワーを浴びてから電話で将人を呼んだ。
「どうだった?」
部屋に入ってきた将人に、明は訊いた。
「別に」
将人は素っ気なく応えて、応接セットのソファに座る。
この手のホテルにしては広い部屋だが、入り口近くの応接から、明と女の宴の跡をそのまま残したベッドは丸見えだ。
「なんだよ。楽しくなかったのか」
言いながら、明は冷蔵庫からビールを出す。
将人にも注いでやる
将人は火灯美と抱き合ってじっとしていただけだった。火灯美はまた会いたいと言って、将人をスケッチしたノートを持って帰った。
明はグラスのビールを飲み干した。将人もビールに口をつけた。
ヴィジョンではグラスに手も出さなかったのに。将人のちょっとした変化に気がついた。
女と過ごして気分が変わったのか。
隆男から声をかけられるまで、このホテルに隠れていなければならない。ならば、また女を呼ぶのもいいなと、明は考えた。
一仕事始める前に、お楽しみを先払いでいただくんだ。