8
夜明け。どんよりと曇った空に黎明の光はなく、ただ乳白色の雲が天を覆っている。
明と将人は乗ってきた車を林の中に隠すと、木立の間を歩き始めた。通る者の少ない道で、雑草を踏みしめて行くようだ。
将人は隠れ家のホテルを出るときからずっと無言だった。
もともと口数は少ないほうなのだろう。明は気にもとめず、将人を乗せハンドルを握りここまで来た。
隆男から受け取った拳銃は、二丁とも明のベルトに挟んである。
二丁合わせるとかなりの重さになる。
明はずり下がってくるズボンを気にしながら歩いていた。
イタリア製の自動拳銃と、アメリカ製のリボルバー。
中国製のトカレフしか持ったことのなかった明には、二丁の拳銃が宝物のように見えた。
機械加工で作られたまっすぐなライン。光を蓄えたような、黒い鋼鉄の肌。
リボルバーはステンレスの地肌が輝いている。
工業製品としての美しさが、二丁にはあった。
スライドやシリンダーラッチなど、指をかける部品には長さも深さもきれいに揃った、滑り止めの刻みがある。
手作業の工程が多く作業も雑な中国製のトカレフでは、滑り止めの刻みは一本ごとに深さも違い、波打って曲がっている。
木立が開け、廃墟が姿を現わした。かまぼこ型の屋根の上に鉄骨のやぐらに乗せられた、黒く煤けたボウリングのピン。ガラス窓は破れて枠だけになり、壁には稲妻のようなひびが走っている。数年前に廃業したボウリング場だ。
入り口の脇に黒塗りの大型車が二台止まっているのが見えた。
隆男の情報通り、建物の中で取り引きが行われているのだ。
周囲を見回した明は、小走りに建物の裏に向かった。将人もついて行く。
明が錆の浮いたスチール製の通用口に手を伸ばしたとき、内側からドアが押し開けられた。
明と将人は左右に飛び退いた。
戸口に現れたのは、どちらか一台の運転手を務めていたであろう、筋肉かたまりのような大男だった。
明は大男に見覚えがあった。名前は知らないが山野組の人間だ。運転手を務めているのであろう。彼の自慢は怪力と真珠を埋め込んだペニス。コイツのペニスの先端は脳みそより大きいんじゃないか。そう思ったことがあった。
明は大男に向かって、迷うことなく一歩を踏み出した。
右の拳を大男の腹に突き入れる。腹筋の抵抗は思ったほどでもなかった。男の口からごぼりと空気の塊があふれ出る。
大男は体を二つに折ってコンクリートの床に膝を突く。反撃できる状態ではない。
念のため、側頭部に回し蹴りを放つ。
つま先に頭蓋骨の砕ける感触が伝わってきた。
人間は案外簡単に死ぬものだ。
死体をまたいで、明と将人は建物の中に入ってゆく。
狭い廊下は真っ暗だったが、明も将人もまるで猫のように夜目が効く。
散らかった新聞のきれっぱしや、鼠の死骸をよけてゆく。
廊下を抜けると、湿気を含んでそりかえったレーンが並んでいる広い空間に出た。
二つの集団がいた。床に置いたランタン型懐中電灯に照らされている。三人と四人だ。それぞれの集団の足元には大型のアタッシェケース。片方は札束、片方は麻薬が詰められているに違いない。
「行くぞ!」
言って明は、男たちのほうへ足を踏み出した。
その声に、男達が同時に首を巡らせる。
明は腰の後ろから拳銃を抜いた。
右手にベレッタ。左手にマグナム。
自分たちの能力があれば、拳銃を使う必要はない。しかし、武装した数人の暴力団員が、全員撲殺されていたなどという、警察やマスコミの興味をかき立てる事件にはしたくない。
明は一片の躊躇もなく、引き金を引いた。二丁の拳銃を連射する。
弾丸が連続して男たちに降り注ぐ。反撃する隙を与えない、圧倒的な攻撃だ。
左手からのマグナムの六連射を浴びた三人の集団はラインダンスのように、ばたばたと倒れる。
明の右手側にいた四人は、麻薬を運んできた台湾人だった。
軍務経験もある彼らは、山野組の三人より反応が速かった。
手前の二人に弾丸が集中する間に、奥の二人は床に転がって弾丸を逃れる。
転がりながら、何度も練習してきた自然な動きで、ジャケットの下から小型の短機関銃を抜く。
ワイヤー製のストックを本体の上に折りたたむ、独特の形状から、スコーピオン(蠍)のニックネームがついた三十二口径の銃だ。
二人は左右に分かれて転がり、ほぼ同時にスコーピオンの銃口を明に向けた。
明は焦った。既に二丁の拳銃の弾丸を撃ちつくしていた。
「銃を扱うには冷静であることが大切だ」明が初めて拳銃を手にしたとき、隆男から聞かされた言葉だ。調子にのると、撃つ気もないのに引き金を引き、ケガをする。肝心なときに弾が無くなっている。
そして隆男は、拳銃の操作法を明に教え、二人は的に向かって撃った。
拳銃はスミスアンドウエッソンの三十八口径。フィリピンの射撃場だった。
撃たれる。と明は思った。ミューティアンが銃弾で死ぬことはあるまい。しかし、どれくらいの痛みがあるんだろうか。
将人は突然始まった銃撃を、冷静に見つめていた。
明が撃ち洩らした二人が床に転がったときには、行動を始めていた。
明の横をすり抜けて、近い方の男に駆け寄る。
男は明に銃口を向けて、スコーピオンの引き金を絞る。
が、一瞬速く、将人の蹴りが男の手からスコーピオンをもぎ取った。
スコーピオンの引き金の用心鉄が引っかかり、男の人差し指が第一関節から切断された。
男が苦悶の声を漏らすより前に、将人の蹴りがその顎に撃ち込まれ、下顎骨と頸骨が砕ける。
もう一人の男は、仲間に黒い影が襲いかかったのを感じながら、明に向かって銃撃した。三十二口径の銃弾が、連続して発射される。
明は胸の真ん中に激しい痛みを感じる。
撃たれた。銃弾が肉に食い込んでいるのだ。
致命的な痛みではない。
しかし、耐えられない。痛みが耐え難いのではない。
自分に攻撃を加えた者。その存在が許せない。それが、耐えられない怒りを生み出すのだ。
スコーピオンの装弾数は二十発。男は明への三連射で弾丸を撃ち込み、次の三連射を加えながら、仲間の様子を見る。
将人は最後の敵を粉砕しようと、素早くステップした。
男はスコーピオンを将人へ向けようとしたが、将人の動きがはるかに速かった。
将人は頭頂部に渾身の蹴りを打ちこみ、一撃で仕留めた。
「大丈夫か」
将人は、明を振り返る。
明に傷ついた様子はなかった。
が、明の姿は変貌を遂げつつあった。
上半身の筋肉が膨れ上がり、着衣を引き裂いている。皮膚は獣の剛毛に覆われ、顎が長く突き出して、頭部は狼のそれと酷似した形状に変化する。
将人は夢の中の自分を思い出した。黒い影となって戦う自分。
明もそれと同じ様に変貌を遂げているのか。
シルバーバックの姿に戻った明は、突き刺さってくる将人の視線に気がついていた。
驚いたのか怯えているのか、明にはわからない。将人はただ見つめている。
「これが俺の本当の姿だ」
シルバーバックはうなるような声で話しかけた。しゃべりやすい口の構造ではない。
将人は、シルバーバックの瞳を見つめる。
「変身してやっつけようとしたンじゃないぜ。ヒーローじゃないンだから……撃たれて、腹がたった。俺に銃を向けたやつが許せなかった。ま、タマがぶち当たった痛みなんて大したとなかったんだがな……」
「俺にも同じことが起きるのか?」
「知りたいのか?」
シルバーバックが口を歪ませた。にやりと笑ったつもりだった。
将人からはそう見えなかった。
飢えた獣の、歪んだ口の端から唾液が透明な糸を引いて垂れた。
日が昇りきる前に明と将人は、街に戻った。
隆男が用意した今度の隠れ家は、街を西側のはずれにある、プレハブの平屋だった。
畑を一ブロック抜けると国道に面した大型パチンコ店の裏に出る。以前はパチンコ店の店員が住み込むためのものだった。今は空き家である。店員の寮は国道の反対側のアパートになっていた。
明と将人は車をプレハブの横に止めて、中に入った。
プレハブの中は畳敷きの大きなワンルームで、隅にユニットバスがある。
明は両手にぶら下げたアタッシェ・ケースを畳の上に投げ出した。
片方は金。片方はクスリ。日が高くなれば、隆男が両方ともピックアップに来ることになっている。
明は埃っぽい畳の上に大の字になった。
「一仕事終えたってのに、さっきより待遇が悪くなったな。ここじゃ女も呼べないぜ」
将人も座った。
将人は押し黙っていた。ボウリング場で、明が『気』を集中し、苦労しながら人間の姿に戻るのをずっと見ていた。
それから黙ったままだ。
これが自分たちを捕まえた秘密組織から与えられた力だったのか。
そして、敵に対して反射的に攻撃してしまう、自分。
自分も「兵器」として作り上げられてしまっているのか。
将人は思い出そうとしている。自分が何者かを。しかし、何の断片も浮かんでこない。
変身した明の姿は、夢の中の自分の黒い影に重なっていた。
自分も野獣と人間を合成したような姿に変わるのか。
自分も変貌を遂げてみれば、失った記憶を思い出せるのではないかとも思う。
だが、それは試してみるべきではないと潜在意識が訴えている。