火灯美は警察署が嫌いだった。中学生の頃から飲酒や、万引きで補導されていたせいだ。
もっとも、警察署が好きなどと言う人種は、警察官以外にいないのかもしれない。彼女は制服が嫌いな小学生だった。中学校のセーラー服も嫌いだった。それも警察官が嫌いになった理由に加えて良いのかもしれない。
なぜ、みんなで同じ格好をしていられるのか。
制服を着た集団の中では、誰が自分だか分からなくなる。
それは気持ち悪いことだった。
 しかし火灯美は、警察署にいた。
昼過ぎに電話で起こされ、警察署への出頭を要請されたのだ。発見された遺体の身元を確認して欲しいとのことだった。
火灯美は遺体が悦子だと直感した。いつかこうなる気がしていた。
暴力を振るって自分の優位を確かめないと気が済まない変態の客のせいか。それとも、根も葉もない俗説を信じた客が、至上の快感を得ようと行為の最中に首を絞めたのか。
それにしても、なぜ自分より先にそんな不幸が悦子を襲ったのか? 
 火灯美は、警察からの電話であわてて身元を確認に来る悦子の姿を想像したことがあった。
悦子は冷たい肉の塊に変わり果てた自分を見て、「間違いありません。火灯美です」とこわばった声を出す。しかし涙は見せない。火灯美はこんな最期を迎えても不思議ではない生活を続けていたから。

 地下室で悦子に会った。
寝台の上で、白い布をかぶせられ、人間の形の山脈を作っていた。
隣にも同じ寝台。どちらの山が悦子なのだろう。
制服の警察官が布を持ち上げ、血の気の無くなった悦子の顔をさらす。
警察官は四十代半ばくらいだろうか。厚い胸板と膨らんだ耳は、柔道が得意なことを示している。その横には白いワイシャツの刑事が立っている。
「あなたのお友達ですね」
刑事が冷たい声を出した。
火灯美は声が出せなかった。硬い表情のまま、ただ頷いていた。
「緑川悦子さんですね」
念を押した。
「間違いありません」
火灯美の声はかすれている。
刑事が悦子の寝台の隣の寝台から布をはぎ取った。
「こちらの男性は、ご存じですか?」
孝彦だった。悦子の彼氏だと、喉を絞るように声を出した。涙があふれてきた。
どうしてだろう。
悲しむ自分が意外だった。
でも、一緒に死ぬなんて悲しすぎる。
二人に何があったというのだ。
 悦子と孝彦は、車ごと海から引き上げられた。場所は街の南にある大須埠頭。
孝彦の運転ミスが原因で、車ごと海に転落したと思われた。
しかし、海中への転落の衝撃で、手首の骨が砕け、内臓が破裂するだろうか。
どうやら、車ごと海中に没する前に何かがあったようだ。
火灯美は警察署の二階にある取り調べ室で、白いワイシャツの前沢という刑事から、そんな事情を聞かされた。
しかし、前沢は彼女を取り調べたがっているわけではない。
「済まないね。今日は大事件があったもんで、他に空いてる部屋がないんだ」
 前沢の軽い口調からは、閉鎖されたボウリング場で八人の男が他殺体で発見された、というのが今日の大事件の内容とは伺えない。これが前沢の個性だった。そのため、頼りない奴だと思われて、担当した事件の被害者や署のお偉方からの評判は良くない。
 火灯美は前沢に問われるままに悦子のことを話した。出張風俗で働いていることも話した。手と口だけでサービスしていることにしておけば、たいした問題にはならないはずだ。顔見知り程度の関係だったが、孝彦について知っていることも話した。
 前沢はただ聞いていた。考えている様子がない。
火灯美は話しているうちに不安になってきた。この刑事は、悦子を殺した犯人を捕まえる能力があるのだろうか? 
前沢が興味を持った(ように彼女から見えた)のは、悦子が孝彦にしていた儲け話の件だった。内容は分からなかったが、あの時の客が儲けのタネであることは間違いない。
そしてあの時、客の代わりに金を払ったのは山野組。
前沢の表情が曇った。山野組の存在が曇らせたのだ。
この街で山野組に手を出すのは至難の業だ。
しかし、事故への偽装がこれほどずさんでは、いくら山野組が警察幹部とパイプを持っていようと、事件になるのは避けられない。
しかし、前沢にはこの先の展開が想像できた。
捜査本部が設けられると、山野組のチンピラが自首してくるのだ。
それで一件落着。彼が真犯人かどうか、誰も気にしない。取り調べの辻褄があっていればいいのだ。どうせ被害者はホテトル嬢と恋人のチンピラだ。
 だが、それは前沢の最も嫌いな展開だった。山野組と警察の関係はいつか精算されなくては。ずっとそう考えていた。だから、山野組の人間から様々な便宜を図られたり、金品を贈られるようなことは避けてきた。
しかし、署内で浮き上がるわけにもいかず、組との持ちつ持たれつの関係をただ傍観している。それはいつか自分の手で組との関係を清算するためだ。
今がそのチャンスかもしれない。この殺人の偽装のほころびを突くのだ。
前沢の眼差しに、熱い光が射す。
 火灯美は前沢の表情の変化に気がつかず、ただ話し続けていた。悦子と孝彦についてどんな細かいことも話した。
山野組が覚醒剤を扱っている件も、うわさ話だがと前置きして話した。ホテトルのことは話せても自分がクスリを使っていることは話せない。
火灯美は警察嫌いの自分が、こんなに一所懸命に悦子を殺した犯人を捕まえて貰おうとしているのが、意外だった。

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